日本の土着性について

何と言われようが日本が先進国なのは間違いない。ところが、日本には古来からの土着主義がある。この土着主義が今日まで続いていて、それが排他的で攻撃的で非科学的な発想へと繋がっている。現代日本の諸問題を語るのにこれは避けて通れないのだ。

 

先進社会と土着社会

今日どんな先進国とされている地域でも、古代には原始的な考え方があった。科学も発展しておらず人類にとって分からないことがまだ多かった時代には、今では通用しないことが普通に信じられてきたのだ。弱肉強食や仲間外しの社会は生きて行く上で当たり前で、本能と自然に忠実に生き、様々な未知の脅威や生命の危機に対処するために争ったり何かを犠牲にしてきた。

そんな人々もやがて技術を発展させ、文明社会を築き、学を発展させていくと、原始的な考えというのは否定されていくようになった。そうした社会が今先進国と呼ばれている。攻撃的で原始的な考えは先進社会において差別・非科学的思考の原因になり、弊害となる。

だが、原始的な考え方や本能的な生き方は、攻撃的でない限り個人の主義や代々の伝統である。他人に強要したり暴力的なものでなければ問題はない。占いやおまじないは問題なく親しまれており、宗教でも信仰は個人の自由だし、現代社会にいてあえて原始的な暮らしを送ろうとする人だっている。また、現代社会的ではない古くからの生き方を守り続ける先住民といった人々だっていて、その人たちを先進社会が否定するのは暴力と言えよう。

 

日本の土着性

さて、日本はどうか。日本は先進国であり、原始的な社会から見れば強い立場にいる。それにも関わらず、外面的には先進国の形を取りながら、内面に原始性を抱えている。この原始性の悪い部分、攻撃的な部分は国民的に浸透しており、なおかつ権威として存在して重要な立ち位置にいるのだ。日本にはそんな「土着性」がある。これまでの歴史の中でこの国は土着性を捨てきれずにいた。 

日本は古代からアニミズムを信仰していた。アニミズムとは自然信仰のことで、古代人はまだ判明していなかった自然を畏怖の対象として見ていた。古代では今より生き死にが身近だったので生死に対するプリミティブな哲学が発生して、それはアニミズムとも密接だった。有名なのは八百万の神信仰であり、万物には人智を超えた魂が宿っているという考え方で、良くも悪くも現代まで受け継がれている。神道も妖怪も「物を大切に」も「お天道様が見てる」も「いただきます」も山岳信仰も日本神話も根源にあるのは古代のアニミズムだ。

 

そうした古代人の本能的な感覚と土着信仰の中で、二項対立的概念が生じていった。それを説明するのがウチソトハレといった民俗学的用語である。 ウチ・ソトは内側と外側ということだが、内側にいるのは自らが属するものや仲間、外側は自分と異なる属性のものすべてだ。古代社会で生きてゆくには仲間で固まっているのが絶対的に安全で、自分たち以外の未知で得体のしれない存在というのは圧倒的な脅威であった。これがウチソト思想を発展させた。そうすると今度は、内側と外側の間に外部の脅威を侵入させないための垣根が必要になり、結界の概念が生じた。結界は物理的なものもあれば心理的なものもあり、いずれにせよウチとソトを隔てる絶対的な線引きである。その線を超えることができたものはウチと認められる。

ソトの存在は脅威であり、未知。人間は生死の本能からそうしたものを恐れるので、ウチ以外は得体のしれないであった。物の怪の怪である。それに対して、ハレはウチでめでたく歓迎されることであって、ウチの中での祝い事など儀式を指す概念だ。また同時に、ケガレという概念もあり、生死に関係しているケを忌避ないし清めようとする思想がある。

 

以上の日本土着概念は古代の思想であり続けたが、驚くべきことに今日の現代社会でも根強く残っているのだ。 仲間外れにすることや村八分にする差別、同じでないといけないという同調圧力、「世間体」を重んじる社会、これらは人類に普遍的にみられても日本の場合は土着的な思想に基づいている。人種差別も性差別も年齢差別も職業差別も、形骸化した意味不明なマナーも、美徳に反する人への私刑も、根源にあるのは土着思想だ。「成人式」なんて、日本の土着思想の典型例だ。先進国でありながら、国レベルで攻撃的な土着主義にこだわっているのが日本なのだ。