「成人式」って意味あるん?

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「成年式発祥の地」(蕨市)


 

毎年1月になると残念な気分になる。日本には「成人の日」「成人式」が存在して、国全体が総力を挙げて「新成人」を祝うのだが、その未開ぶりに呆れてしまうのだ。「成人式」なんてやっているのは日本だけだし、あの儀式に疑問を抱かない国民にはいら立ちを覚える。 

 

「成人式」は日本の土着思想に基づいている

 一般に「成人式」「成人の日」の意義とは、大人になる若者を祝福して、青年まで無事に育ったことを祝うものだと思われている。それなら現代にも通じる良い話だ。だが、真の意義は日本の土着思想に基づいたハレ・ケとウチ・ソトの概念を儀式化することにある。

日本に土着的に存在する二項対立に、大人と子ども・親と子どもがある。大人と親はマジョリティとして権威の立場つまりウチであり、対する子どもは部外者ないし従属するソトの扱いだ。大人から見て子どもは理解できないもの、従わせないといけないものという本能的な古代人の感覚があり、完全に大人と子どもの間に壁があり続けたのが日本だ。今日「成人」とは漢字文化圏で「大人」の意味しかないが、字面だけ元の意味を辿れば「人に成る」であり、大人こそが対等な一人間という古代日本の思想にすんなりくる。

大人と子どもを別扱いするのは人類普遍的だが、日本には土着思想がある。大人・成人者がウチ側である以上、子どもはソト側であるという決定的な違いがある。ウチとソトの間には峻別するための結界を設けねばならず、同時にその結界は条件の線引きであった。古代人がその条件として設定してきたのが儀式だった。日本で言えば元服の儀を経験すればウチ側の人間として認められ、その元服の儀が今の「成人式」に繋がっている。ハレ・ケの概念もあって、儀式を経て結界を超えた者をソトのケからウチの仲間としてめでたく受け入れるのはハレの状態だ。「新成人」という気持ち悪い言葉も、ハレ・ケの思想によるものだ。ついでに言えば「新社会人」も「シャカイ(サラリーマン)」というマジョリティ集団に帰属するのを祝うという、ウチ・ソトとハレ・ケの思想である。

世界の原始的な生活を続ける人々の間ではこうした思想や儀式は重んじられ、部外者を仲間に入れるかどうかの条件として成り立っている。未だに原始的な生き方をする非先進地域でこういった儀式だとかが重視されるのは、彼らの希少な文化であって理解できる。先進国であっても、宗教がそうであるように、一部の人々の思想に過ぎないものだ。ところが、先進国なのに国全体で土着的な思想にこだわっているのが日本だ。どう考えても未開的なのに、国民のほとんどは疑問に感じず受け入れ、むしろ「成人式」を神格化している節がある。若者もそんな中育っているから、「成人式」をすごく有難いものだと思っていたりする。

 

実は伝統がない「成人式」

歴史と伝統がありそうな「成人式」、実は歴史が浅い。戦後まもなくに埼玉県蕨市で催された「青年祭」が最初で、情勢が良くない中で若者に希望を持ってもらうための健全な行事だった。ところが、時の政府がこの「青年祭」を日本全体に取り入れたことですべてが変わった。日本の保守的な土着思想を復古させる機会と見たのか、政府は式を行う日を「成人の日」として国民の祝日として制定した。そして、「成人式」が日本全国の自治体で行われるようになってしまった。

「ハタチ」も歴史がない。

世界の国々で成年は18歳であることがほとんどだが、日本はどういうわけか20歳である。なぜ20なのかは諸説あって明確な根拠はないのに、日本人は「ハタチ」を神聖な年齢としていて、20歳以下だから20歳以上だからということに異常に拘っているのだ。近年ようやく成年の引き下げという風になっているが、今だにハタチ教は幅を利かせている。さらにおかしいことに、元服の年齢は15歳か16歳頃であって20歳の要素はなかった。年齢の概念が厳格化したのも明治以降だ。

どうしてここまで日本人がそんな20歳に拘泥するのかといえば、単純に法律で決まっているから理由は何であれ絶対なんだという思考と、「ハタチ」という年齢をウチ・ソトとハレ・ケを分ける結界として土着的に認識していることにある。そんなことだから、「ハタチ教」と「成人式」絶対主義は親和性が高く、両者はセットで信仰されてきた。

「成人式」の思想自体は日本の土着思想そのものであるが、儀式と20歳という年齢には歴史がない。新興宗教的と同じなのだ。「成人式」に本気で意味を見出して意識高く語る人など気味が悪く、若者がそんなだったら洗脳にしか見えないのだ。子どもに大人や親への感謝を促す土着思想の刷り込みとして「2分の1成人式」なるものをやっている所なんて最悪である。

 

 全体主義的な「成人式」

個人的に祝えば良いレベルのものを同じ日に国全体で祝福するのが「成人式」の不気味なところだ。沖縄含め日本の全ての自治体で行うこと、服装が統一的であること、参加することが同調圧力的であること、全てが全体主義的だ。「新社会人」の入社式も同じ。軍隊の入隊式を国がめでたいこととして賛辞を贈り、若者が幸せだと呼応するような光景は抑圧的だ。

国民がまずこの全体主義を好んでいて、「成人する」こと「成人式」を非常に意味のあるものとしている時点で問題なのだ。20歳になったからといって人格が急に変わるわけでもないし同じ人であり、儀式を経験しなくても何も問題ないのにである。日本だけの日本でしか通用しない古代の価値観など、先進国の世界では全く通用しないのだ。

 

 

若者は「成人式」を望んでいるのか?

「成人式」なんて、全体主義の役人の自己満足である。時間とカネのバラマキで、全く無駄。あとは振袖とかの業界が商売になるくらいだ。

はっきり言って、「成人式」に本気で参加している若者なんていない。振袖や袴を着る事と、式の後にある同窓会が目的である。市長の話を馬鹿真面目に聞いて、テレビのインタビューで大人になることとは~みたいに答えているような意識高い系はダサ過ぎる。よく式の最中に暴れるヤカラを低俗メディアが取り上げて式の意義について講釈垂れたがるが、ヤカラに限らず若者全体が「成人式」自体どうでもいいのが実態だ。個人的に仲間内で祝えるものなのに、そんなわずらわしい儀式を自治体が開催して色んな奴らを集めることに無理がある。SNSで集まることもできて、着物店も年中やっている時代に変だと思わないか。

それから、式に行く事を一世一代の大一番かのように考えている人は世界を見るべきだ。「成人式」は日本にしかないので、世界に行けばその式の価値は意味をなさない。中には式に行かないという人だっていて、その人はもしかするとイジメられていた人やかつて学校になじめなかった人かもしれないし、どうしても行けない理由があるのだろう。行く行かないは個人の自由であって、行かなかったからダメなんてことは全然ないのだ。「はれのひ」事件で振袖が届かなくたって、振袖をレンタルすることは基本的にいつでもできるから何が悲しいのか意味不明だった。新型コロナウィルスの影響で式が延期されたところでそんなの当たり前だし、SNSやオンラインがいくらでもあるこの時代なのに加え、同窓会だけならいつの日か叶うことだ。

私はこれでも式には行った。ただ、市長やお偉いさんの話なんて全く聞かずに友人らとずっとしゃべっていた。私の地域では暴れるヤカラなどいなかったが、式の最中はすごくグダグダな雰囲気があって、早く終わんねーかなという空気だった。それに対して友達との記念撮影・パーティー・二次会は大変楽しく、良い仲間良い地域に恵まれたと思ったものだ。やはり振り返ってみると同窓会やイベント要素が目的であって、「成人式」それ自体は全くどうでもよかった。これはきっと私だけの感覚ではなく若者ならみなそんな感じだろう。

 

 これからの時代、やるなら「青年式」

 「成人式」が自己満足の時代遅れ非先進人間が思うよりも形骸化していて、若者は式を意味の無いものだと思っているのは上述の通りだ。国際化とポリティカル・コレクトネスも進んでいて、2020年からは新型コロナウィルスで新しい生活様式とやらが推し進められている以上、いい加減「成人式」も変わるべきだと思う。日本の悪しきハンコ文化がようやく批判されてきていて、「成人式」だって変わる必要がある。

すでに述べたように、もともと蕨の「青年祭」があった。だから、名称を返上して「青年式」「青年の日」に改めるべきじゃないか。目的が旧友に会うことや同窓会になっていることからも、「同窓式」でもいいかもしれない。服装だって、この時代なんだからみんな着たいものを着ればいいし、振袖・袴・スーツ・私服・コスプレでもなんだっていい。地域に思い入れがある若者が集まって親睦を深める意味では自治体が開催する意義はあって、参加者にとってもいい機会であるとは思うので、日本の土着的な部分を削れば先進国にも通用する行事になるだろう。